応援団やサムライうさぎについて。あとはアニメ三国演義の歪曲感想とか。
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蟲師の9巻が出てたので買って読んだら「おや?」と思う内容がありましてね。
夕方になると妻が出て行ってしまうのだ、と共に年老いた夫婦の夫が主人公のギンコに言うワケです。
これは昔からあったことで本人(妻の方)は「帰らないと」という思いに突き動かされて──でも帰るべき明確な場所が分からないので、ウロついた挙げ句にどこに行けば良いか分からず途方に暮れてしまう、というお話。
その行動についてギンコは「夕暮れ時のみに現れる、大禍時というモノ」に関係があるかもしれない。あなたの奥さんは、その大禍時に幼い頃に呑まれてしまった者なのではないか、と夫に告げるのだが──。
そんなふうにお話は進んで行って、ある結末を迎えます。
そして作者のあとがきで「夕方になると自分の家にいるのに"帰りたい"と言いだすのは、認知症のお年寄りに良くある行動なんだそうですね」と書いていました。
それってウチの祖母も同じなんですよ。これは俗に黄昏れ症候群と呼ぶのだそうです。
朝からずっと普通にしているのに、夕方になって御飯を食べ終わったりすると、いきなり「ではお世話になりました。私は帰らせていただきます」とか言いだすんですよね。
「おばあちゃんの家はここだよ」と言っても駄目。とにかく帰るの一点張り。じゃあ、どこに帰るのかと聞いても本人は良く分かっていない。
夕方になると「あ、帰らないと」と思うのは、原始の頃より昼間に活動していた人類が持つ普遍的な感覚なんでしょうかねぇ。
たまたま祖母の娘であって、私の叔母に当たる人が老人介護や福祉について指導する立場にいるので相談したら「人によって対処法が違ってくるけど、大概の場合は無理矢理引き止めない方がいい。駄目だ駄目だと言うと、本人も意地になるから、やりたいようにやらせてあげて。
玄関で見送ってあげたら背中が見えなくなる前に、心細くなって帰って来ることもあるし、もし足腰が丈夫な人だったらどこまでも歩くかもしれない。でもいずれ本人が疲れて立ち止まったり座り込むから、その時に『あれ、おばあちゃん。ここで何してるの?私これから家に帰るところだから一緒に帰ろうよ』と声を掛けてあげれば、案外大人しく付いて来てくれるから。
とにかく本人の意思を無視したり、プライドが傷付くことをしては、ひどくなるだけだよ」なんだそうです。
認知症の場合、新規に体験したことを記憶する能力はなくなって行くので、次の日には自分が出て行こうとしたことすら忘れちゃってるんですよね。実際うちの祖母もそうです。
でも私は出来ることならば祖母の帰りたい場所を、一度見てみたいなぁと思ったりするんですよ。おそらく祖母の人生の中で、一番幸せな頃の記憶の場所なんだろうし。
まぁ、どだい無理な話ですけどね。だってそこは今は記憶の中にしかない過去の世界ですから。その瞬間に生きて過ぎ去ってしまった時間にのみ存在したものでしょうから。
時間は逆行しないから過去には戻れません。今という瞬間を過ぎれば消滅してしまう。
そうなると「消えるということは、時間とは"存在するものなのか"」という話になりますけど「心の中に"存在する"」と哲学者のアウグスティヌスが言いました。だからこそ、漠然と流れる時間に意味や目的を持たせることが出来るのは、自分自身しかいないのだ、と。
話しがちょっと反れましたけど、祖母の心の中に存在する帰りたいと願う場所──時間は、おそらく幸せな意味や目的を持つものなんでしょう。
だからいつか祖母が私のことを忘れてしまう日が来ても、その記憶だけは色あせずに残っていて欲しいです。私には連れて行ってあげられないから。
これは昔からあったことで本人(妻の方)は「帰らないと」という思いに突き動かされて──でも帰るべき明確な場所が分からないので、ウロついた挙げ句にどこに行けば良いか分からず途方に暮れてしまう、というお話。
その行動についてギンコは「夕暮れ時のみに現れる、大禍時というモノ」に関係があるかもしれない。あなたの奥さんは、その大禍時に幼い頃に呑まれてしまった者なのではないか、と夫に告げるのだが──。
そんなふうにお話は進んで行って、ある結末を迎えます。
そして作者のあとがきで「夕方になると自分の家にいるのに"帰りたい"と言いだすのは、認知症のお年寄りに良くある行動なんだそうですね」と書いていました。
それってウチの祖母も同じなんですよ。これは俗に黄昏れ症候群と呼ぶのだそうです。
朝からずっと普通にしているのに、夕方になって御飯を食べ終わったりすると、いきなり「ではお世話になりました。私は帰らせていただきます」とか言いだすんですよね。
「おばあちゃんの家はここだよ」と言っても駄目。とにかく帰るの一点張り。じゃあ、どこに帰るのかと聞いても本人は良く分かっていない。
夕方になると「あ、帰らないと」と思うのは、原始の頃より昼間に活動していた人類が持つ普遍的な感覚なんでしょうかねぇ。
たまたま祖母の娘であって、私の叔母に当たる人が老人介護や福祉について指導する立場にいるので相談したら「人によって対処法が違ってくるけど、大概の場合は無理矢理引き止めない方がいい。駄目だ駄目だと言うと、本人も意地になるから、やりたいようにやらせてあげて。
玄関で見送ってあげたら背中が見えなくなる前に、心細くなって帰って来ることもあるし、もし足腰が丈夫な人だったらどこまでも歩くかもしれない。でもいずれ本人が疲れて立ち止まったり座り込むから、その時に『あれ、おばあちゃん。ここで何してるの?私これから家に帰るところだから一緒に帰ろうよ』と声を掛けてあげれば、案外大人しく付いて来てくれるから。
とにかく本人の意思を無視したり、プライドが傷付くことをしては、ひどくなるだけだよ」なんだそうです。
認知症の場合、新規に体験したことを記憶する能力はなくなって行くので、次の日には自分が出て行こうとしたことすら忘れちゃってるんですよね。実際うちの祖母もそうです。
でも私は出来ることならば祖母の帰りたい場所を、一度見てみたいなぁと思ったりするんですよ。おそらく祖母の人生の中で、一番幸せな頃の記憶の場所なんだろうし。
まぁ、どだい無理な話ですけどね。だってそこは今は記憶の中にしかない過去の世界ですから。その瞬間に生きて過ぎ去ってしまった時間にのみ存在したものでしょうから。
時間は逆行しないから過去には戻れません。今という瞬間を過ぎれば消滅してしまう。
そうなると「消えるということは、時間とは"存在するものなのか"」という話になりますけど「心の中に"存在する"」と哲学者のアウグスティヌスが言いました。だからこそ、漠然と流れる時間に意味や目的を持たせることが出来るのは、自分自身しかいないのだ、と。
話しがちょっと反れましたけど、祖母の心の中に存在する帰りたいと願う場所──時間は、おそらく幸せな意味や目的を持つものなんでしょう。
だからいつか祖母が私のことを忘れてしまう日が来ても、その記憶だけは色あせずに残っていて欲しいです。私には連れて行ってあげられないから。
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